自分による自己紹介
こんにちは。最近、体重が増えてきた、辻田忠志です。なまえは、「ただゆき」とよみ、二つも!下心があります!(以下略)
1977年(昭和52年)8月27日 乙女座生まれの男子です。
いわゆるロスジェネ世代で、40代の大台に乗ってしまいました・・・(汗)
生い立ち
1977年8月27日
群馬県渋川市(日本のへそと言われおり、日本へそ祭りという素晴らしい祭りがある;諸説あり)で生を受ける。母は群馬育ち(いわゆる、群馬4大名物:地震・雷・火事・母ちゃんのうちの一つ・・・)
幼少期
群馬のじいちゃんとおじさんが経営するする酪農のすばらしさに触れる(日本でも指折りの有名酪農家です)。うしにもとても興味があったが、どちらかというと、トラクター(黄緑のDeutz製)とそのアタッチメントに強烈に執着し、敷地内でトラクターを乗り回す(もちろん無免許)。イケてる男子のおもちゃといえばミニカーなのだが、そのほとんどがトラクターで、周囲の子供とは一線を画す。このころから、ゴーカートに異様に執着し(特にイニシャルDで有名な榛名山の遊園地に行ってはゴーカートに乗り、最速を競っていた・・・。その当時、親戚のおじさんが乗っていた、カリーナGTは速かったなぁ・・・
1982年8月 群馬から佐賀へ引っ越し
幼少期を過ごした群馬県前橋市から佐賀県佐賀市(父の実家)へ引っ越す。以降佐賀に定着することになる。
1983年4月 佐賀市立神野小学校へ入学
小学校では奇抜なデザインと生き物のスケッチを創出し、数々の作品展で認められることに喜びを覚える。通知表をみると整理整頓ができない、落ち着きがない子供と6年間を通して記載されており、今に至る・・・母がママさんバレーをしていた影響で、バレーボールを始めることになる・・・
1989年4月 佐賀市立成章中学校へ入学
中学校ではバレーボールに打ち込む・・・。理科の自由研究(植物の気孔の形とその規則性の発見)で佐賀県の発表会で最優秀賞を取る。これは、担任の先生が理科担当だったことの影響が大きいと思う。もうすでに退職されていて悲しい限り・・・。2年の時に、なにを思ったか生徒会長に立候補する。生徒会長にはなれなかったが、生徒会に入ることになった。拝命した役割は、一番向いていない風紀委員長だった。
高校入試では 余裕と思っていた推薦入試に落ち(自分ではほとんど合格していたと思っていて)、どうやったという問いかけに、Fifty Fiftyとのたまう・・・。合格者が多い、佐賀西高にすればいいものを、やけくそで致遠館高校理数科の一般入試に挑み・・・・合格しました・・・
1992年4月 佐賀県立致遠館高等学校・理数科へ進学
高校生活は、希望の高校へ入学を果たしたものの、入学時にもらった分厚い封筒が、その高校を物語っていた・・・泣きながら課題をこなしていました。周りは、当時は、佐賀県下全てから通ってくる推薦入試のエリートばかりで、授業と課題についていくのに精一杯。ブレーザー制服という公立高校としてはおしゃれ高校という表面の中身は県内屈指のいわゆるブラック高校で、英語、国語がないと思い込んで理数科に行ったのに、理数が1.5倍となっているだけで、国語・英語が減ることはなく、毎日課題に追われる日々・・・。数学の先生は、黒板用コンパスをいつも持っているし・・・赤ら顔の現代文の先生はめっちゃ怖いし、いろいろ疑問が残ることは多かったが、この高校生活がなければ、今の自分はなかっただろうと思える。ただ、毎週月曜に実施されていた英単テストで数えるほどしか一発合格できないぐらい、記憶力が乏しかった・・・(涙。私は6回生。あ、バレーは自分の周りの重力が重くなっていたのでやめました・・・
1995年4月 九州大学農学部へ進学
大学に入ったら、何か運動部に入ろうと思い、入学後はいろんな部活の勧誘に引っかかっては、夜ご飯を奢ってもらっていた。体格が良かった(太っているともいう)ので、アメフトにかなり誘われたが、いつのまにかボート部に入部してしまった。実はラグビーがやりたかったのだけど・・・
当時は、1年から、2年前期までの教養でいい成績を取っていないと、希望の学科に進学できないので、1年生の時は頑張っていたような気がする(優秀な友達がいた・・・)。だんだんと、部活が忙しく、楽しく?なり、授業に力が入らなくなったような・・・親は九州ボート大学に進学したと思ったらしい。
無事に、希望の水産学科(元々は農学科に行きたかったのだけど、地球の7割は海だからというよく分からない理由で水産を選んだような気が・・・成績はそこそこ良かった・・・たぶん)に配属された。水産はもうそれは、個性の塊みたいな学科で、自分の没個性さを恨む。実習ではイカや、魚のスケッチ、乗船実習とか今でも記憶に残っているものが多い。
その後、4年で研究室に配属され、水産化学第二講座(現在は海洋資源科学講座)(伊東 信助教授:2019年に退官・現在名誉教授)を選び、研究生活をスタートさせた。
2000年4月 九州大学大学院生物資源環境科学府、海洋資源化学専攻、修士課程へ進学
修士課程ではブリの黄疸原因菌がもつ溶血因子について研究を進めていた。発現クローニングを用いたスクリーニングだったが、後輩がどんどん成果を上げていく中、なかなか研究の芽が出ないで苦しんで、病んだ。今となって思えば、この時にうまくいっていたら、研究に未練を持たず、就職していたと思う。成功体験ができなかったことが、当時、博士課程に進む一番のモチベーションで、自分でも変わった奴だったのかと思う。ただ、当時はバブル後の就職大氷河期だったので、自分が就職できていたかどうかはわからない。ただ、ボート部の同期はみんなきっちり就職をしていったなぁ。
2002年4月 奈良先端科学技術大学院大学 バイオサイエンス研究科、博士課程へ進学
博士課程では、これまで、感染原因の微生物側の研究をずっとやっていたが、やはり宿主のことを研究対象にしたいと思い始めた。水産出身だから、テーマは魚の免疫機構を研究することとなった。大学院を移ることはリスクも大きく、新たな先生(瀬谷司教授:現、青森大学教授、北海道大学名誉教授)との出会い、今でも交流がある同僚との出会いもあり、とても充実した3年間を過ごした。研究の楽しさも苦しさもを味わった3年間だったと思う。
2005年4月 JST-ERATO環境応答プロジェクト博士研究員として働く
博士研究員として、ゼブラフィシュの順方向遺伝学と出あう。また、このプロジェクトは山本雅之先生(現:東北大学医学部教授・東北メディカルメガバンク機構長)が主催するERATOプロジェクトで、 Nrf1やNrf2研究の最先端を体験する。この時、国立科学博物館つくば実験植物園で働いていた妻と結婚する(27歳)。
2008年4月 英国スコットランドDundee大学に留学
留学はDundee大学のJohn Hayes教授のもとで、ポスドクとして参加した。Nrf1の条件付き欠損マウスの解析を実施していたが、Alb-Creの罠にハマる。英語はへたくそだったので、着任後半年、ラボの電話番をさせられた。おかげで、(今は)英語には苦労しなくなった。研究は、いろんなことで難航したが、留学は人生の夏休みみたいになっていたような気がする。このころ、長女が生まれる。
2011年8月 東北大学大学院医学系研究科助教として帰国
大学でスタッフとして働き始める。つくばでお世話になった山本先生ともう一度働くチャンスをいただき、研究に勤しむ。大震災を体験していないので、他の同僚とは分かち合えないと言われる・・・それは仕方ない。震災後に復興する仙台、東北地方を見ながら研究を進め、このころが仕事が一番進んだ4年間だった。メディカルメガバンクが一から出来上がる様などを間近で見ていたので、いろんな点で、役に立った。帰国直後に次女がうまれた。
2015年8月 佐賀大学農学部生命機能科学科 生化学分野 講師として着任
佐賀大学で独立した研究室を主宰し始めた。表向きは留学生専門教育担当ということでだが、研究を主体で、日々ピペットマンを握りしめて研究を進めていたが、学務が段々と多くなった。着任後、優秀かつのりがいい学生が来てくれたおかげで、研究ができる環境が整いつつあり、今では10名弱のグループになった・・・
2023年4月 佐賀大学 教育研究院 自然科学域 農学系 生化学分野 准教授に昇任